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今週は落ちついたというかフラット気味で過ごせている。抗うつ剤による不安定を過ぎ、なにやらそこそこの水準をうろついていると言うところだろうか。
今までの経験上このパターン(フラットな感じ)を素直に喜べない。それは「病識を失う」というか、何とも言えず「変な感覚」なのである。そこそこの量の薬を飲んでいて病気のいわば「一形態」なのかもしれないのだ。

そしてそれはあまりにも疑似病前状態であるため、つい普通人と同様に生活をこなしてしまう。学習しているので無理はしない。しかし「病人レベル」以上の動きはしてしまうのだ。
これを考えすぎと見る向きもあるかも知れないが、何度も反動を経験している。また、何かの拍子に軽躁へ向かうという微妙な体調でもあると認識している。

素直に喜べない普通(フラット)な体調。嗚呼、めんどくさい!

今年7/11に1年ぶりに抗うつ剤を飲んだ。その時はほどよく浮上してしばらくは心地よく過ごすことが出来た。しかし、その後不安定な波がでてきて切った。そのため何となく不安定になるけど「手段」として残してはおけると思っていた。

長く続いていた軽うつに堪らなくなり、先月28日にルボックスを飲むことを求めた。もうこれ以上「軽うつ」が続くのを我慢できないと・・・。

しかしどういうわけか2日も経たずに「不安定」になった。うつの浮上を喜ぶような「状態」ではないことを体感した。そして私は前回の抗うつ剤服薬の際の「動揺」(薬で支える気分への戸惑い)とはまた違う「発見」をした。

◇ 私の病態はうつが長く(軽うつベース)、長いために生活する中で気づかなくなってしまう時があるということ。→元からこういう自分だったのかなと思ったりするぐらい(病気・症状であることを忘れる)
◇ 上がるときは早く、下がるときはゆっくりという曲線を描いているらしいこと。だから、軽うつに入ったことも気付きにくい。
◇ 下がってからフラットへは耐え難い(おそらく辛抱の限界の先に反転するぐらい)時間を要すること。
◇ プラシーボ効果かも知れないが、抗うつ剤に対する反応が高い。したがって、上にある辛抱を続けてうつを脱するのを待たないと薬によって不安定を誘発し、結果として躁うつの波を起こして全体としての治療をリセットさせてしまうという繰り返しになってしまうこと。
◇ 未だにRC、双極性うつを積極的にねらいを定めて治療を行うにいたっていないもどかしさがある。→明確な発症(軽躁エピソード)からの経過で明確に戦略を定めかねている状況にあること。

主治医と以上のことを話すだけの時間がない(笑)。ゆっくりと診察を受ける中で自分なりに整理をしていこうと思っている。

脳研究の最前線(下巻) (ブル-バックス)
理化学研究所脳科学総合研究センター
406257571X
「精神疾患から脳を探る」というタイトルで第9章を加藤先生が執筆しています。

◎しかし、患者にとっての問題は、躁よりもうつ状態である。躁うつ病患者は、人生の三分の一から二分の一という「途方もない期間」をうつ状態で過ごすと報告されている。

◎通常の抗うつ薬が効きにくく、再発もしやすい。

◎抗躁剤は良く効くのに、うつ状態に良い薬がないことが、患者にとっては誠に辛いこと
けだし名言である。

うすうす気づいていたが、どうも私にはタイトルのようなパターンがあるようだ。どうでもいいところをつかまえて自分の考えでもって大げさに料理しようとするところがある。

その判断は誰かに相談することはもちろん希なことで、たいてい一人で下している。いったん自分が下した筋道はどうしても通さないと気が済まない。その時はたいてい軽躁と言っていいぐらいに頭の中は忙しい。

一般化するのは危険であるが、どうもこの病気に付随する傾向である気がしてならない。「一人で判断」は人の言うことを聞かないという躁の典型パターンだし、「自分の理屈に~」は自己肯定感・万能感に通ずるものがある。

逆に言えばこれを逆手にとって生きていくというのも一つの手ではないかと思い始めた。本来歳を取り、職業生活が長くなるほど判断力が増し、一人で判断する場面が増えるはずだが、特性をわきまえて出来るだけ世間一般の方とは異なる行動(一人で判断すべきところでも人の意見を採用する)を取ってみればどうかと思ったのである。そして自分の理屈なり、「こうあるべき」は頭から放り出すことを実行してみることだろうか。

先日来随分と「無気力」「面白くない感」がなくなってきている。軽うつの症状が消失したのだと思われる。

今まで、「低め安定」 というのが理想らしいと聞いていたが、全然そんなのはイヤなのにな?と、ずっとその説のことが理解できずにいた。しかし、今の状態こそがまさに「低め安定」なのではないかということに気づいた。

何しろ、「気分」が落ちついている。ある程度のやる気や楽しいという感覚を持って物事にあたることができている。そして無理のない楽しみを持って生活を送ることができている。 ある意味フツーである。そんな「波」のない、そこそこの気分の水準で毎日を過ごすということのありがたみをかみしめているところだ。

これが寛解状態だというなら、そういうものかもしれないなと納得できると思う。これ以上は望まないし、この状態が崩れるのも怖いというのが今の気持ちだ。

10月30日に診察に行った。少し饒舌だった。私「最近少し浮上しているようです。新聞もよく読むようになりました。もう隅から隅までって感じで。」 Dr「えっ」 私「まあ、調子が良くなるとこんな感じです。ああ、そう言えばここ何日かで図書館に30冊ぐらいリクエストしました。読めないですけどね(笑)まあ浪費じゃないからええと思ってます。」 Dr「軽躁というよりちょっと、強迫があるみたいだね。病気って訳じゃないけど。ウツの時とかに出るんじゃないかな」 私「そう思います。昔からこんな感じありました。」 私「最近眠るまでに時間がかかるんです2時間ぐらいとか」 Dr「薬代えようか?」

ということでマイスリーが提案されました。「ハルシオンでもいいよ」 と言われましたがとりあえずマイスリーを試してみたところ、サクッと寝られてスカッと起きれました。とにかく「寝切れ」が良い!。今までは何だったんだ。ってこんなこと精神科の薬で良くあることだろうけど。

ちなみに少し、ほんの少し上がっているのかなって感じがするけど、日常生活的にはとても役に立つ(動ける)のでしばし静観することにしている。

「仕事との折り合い」をしばらく悩んでいた。上がったり下がったりする度に休んでしまう。外部との約束を飛ばしたり、周りに心配をかけたりということである。それが4月来何度もあったのである。
今日、とあるところに聞いてみた。単に気持ちを吐き出しただけかも知れないが、随分と気分が落ちついた。

上がったり下がったりして休むことに対して、あれこれ考えること自体がストレスになる→また気分の波を招くとのこと。
それよりも、「休んでも誰かがやってくれる」「しょうがない」などと考えて、波が襲ってくることに対して「当然」来るものと認識すれば、いちいち「仕事との折り合い」なんて考える必要はないのである(私が自ら言っていた)。

当然休むであろう前提で仕事に取り組む。はたらくbipolarとしてこんな単純なことを見落としていたとは恥ずかしい限りだ。
それにしても、はたらくbipolarの姿(ing形)は少ないようだ。みな退職して、過去形で語っているとのことだった。

職場で年配のうつの方とお話しした。私のことを同病と思っていることはずっと前から感じていたが、敢えて私から言うことでもないと思って双極性障害であることは伏せていた。

会話の中でひょんなことから「躁うつ病ですか?」と言われたので頷いた。 少し驚いた様子だったが、その後何か昔を振り返り「そういえば昔・・・」と訥々と話し始めた。

二人知っているとのことだった。昔同じ職場にいたそうである。既に二人とも(病気が原因と思われるエピソードで)退職しているとのこと。その事実を前にしてさすがに息を呑んだ。話されるエピソードは典型的なものばかりで、私はただ頷くしかなかった。そして、実際にこうであったという生々しい話を聞かされ、今更ながらこの病気の恐ろしさに背筋が寒くなった。

8月最終週ぐらいから上がってきている。先週の診察でははっきりと上がっていることを述べた。前々から私が要求していた甲状腺ホルモン投与(過去記事)をDrは口にした。rapid cyclingであること、或いは少なくとも病相の不安定感を認識したようである。

私も10月頃までに上がったらそれ見たことか!と思っていたが、実際上がると当たり前だがやっかいこの上ないものだ。 そして様子見ということで先週はLi600mg、VPA600mgのままで行くことにした。

3連休でグングン軽躁は進行した。今日は休みを取った。自分でも明らかにマズイと感じていた。診察で、LiもVPAも200mgずつ増量となった。安定しているからといって600mgに落としたから上がったという見立てだ。しかし、維持療法の段階であるからとして下げたはずだった。今になって「下げたことの意味」が変化した、その言い方に違和感を覚えた。

睡眠導入剤ベンザリンについても今日聞いた使用量についての説明・過去の説明との整合性は不可解であった。

先週血液検査をした。TSHはLiを600mgにしてからの検査ということもあって1.64であった。つまり、1年以上800mgだった頃と比べて大幅に下がったが、これをどう評価されるのか?またLiを800mgにするがホルモンは入れないのか。判断が難しいだろう。期待したいところだ。

これまでずっと病気のことを学び、理解しようと努めてきました。それは、病識がないこと、病気・薬の知識がないことこそが、この病気の症状を改善する妨げになると信じていたからです。
そのため、時に主治医とのやりとりにおいても積極的な発言・態度をとってきました。つねに「気分」をモニタリングしていた時期もありました。

しかし、モニタリングは1年前に止めました。 そして今、病気への関心を持ち続ける加減の難しさをひしひしと感じ始めています。もちろん関心を一切放棄することは危険です。しかし一体どの程度関心を寄せていればいいのか?熱心に関心を持つこと自体が負担になっているし、社会生活の質を下げている気がしています。
一方で頻繁に降りかかる症状に出くわす度に、病気に向き合わざるを得ない以上病気とあまり距離を置くことができないのは事実で、ジレンマと感じています。

直線的に治療が進んでいく病気であれば、 患者の努力が “比例的” に反映するでしょうし、病気への関心は功を奏するのかも知れません。しかし、この病気の本質は “æ³¢” であります。私は未だ慣れないので、この性質がどうも上手く頭に入らないから戸惑っているのかも知れません。

いわゆる “気分” が良くなって喜んでいたら、それは「上がっている」可能性があり素直に喜べません。今日は久し振りに “フラット” な気分でした。喜怒哀楽は特になく、考え事もありませんでした。歩いていて風が気持ちよかったです。 これこそが “安定” している状態なのかなと思いました。ただ、これが「望ましい」気分であるのかと思ったとき、何とも言えない心境になりました。

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